映画『シャイニング』裏話、考察、感想。ラストシーンは製作陣の確執から生まれた。
スティーヴン・キング原作、
スタンリーキューブリック監督映画。
いまさらはあるが、本作が名作たる所以を再確認していく。
また本作は原作者と監督の裏話を知るとよりストーリーを深く理解できるためご紹介させてもらう。
魅力
・冒頭から何か悪い事が起こりそう、と視聴者に訴えかける演出。キャラクター性が破滅を物語っていて、緊張感を持って映画を見れる。
・音楽、映像、キャラクター全ての要因が不気味に恐怖を掻き立てる、最高級のホラー。
本能的に訴えるキューブリックの撮影技術と美的センスは一級品。恐怖に浸りたい方オススメです。
・恐怖の分類としてはサイコスリラーとオカルトのいいとこ取り。
どっちかが好きなら見て損はない。
・しかし狂気的な演出ばかりが目立ち、スティーヴン・キングの良さである、登場人物の奥深さや悲劇が起きるまでのギャップのようなものはあまり感じられない。スティーヴンキングファンは期待を裏切られる映画かもしれない。
監督と原作者の裏話
キューブリックがキングの怒りを誘った逸話はあまりに有名である。
映画を『エンジンの無いキャデラック』とまで言わしめたキングの怒りの理由は以下の通りである。
原作改編
キングは自分自身を主人公として小説を描き、小説のラストでは家族を愛してたが故にホテルのボイラー室を操作しホテルもろとも爆破した。その自己投影である父親が狂った人間として家族を殺そうとするのだから、キングにとってはたまったもんじゃない。
死語の世界への価値観の違い
キューブリックはキングに対して「死後の世界を信じるか」と問いかけ、死後の世界を信じ、そのために人は自らの行動を省みる、といった思想を持つキングに対して「楽観的だ」と言う。
キューブリックはシャイニングなどの超能力は信じてもオカルトを信じない。
その思想の違いが映画に現れ軋轢を生んだ。
考察
この映画にはオカルトとサイコスリラー、二つの恐怖が内在している。
つまり、一つは母親や息子が見る、ホテルの記憶である“幽霊に対する恐怖”
もう一は父親が見る、狂った妄想としての“人間の狂気に対する恐怖”
視聴者は幽霊を信じていようがいまいが、どちらの目線でも楽しめる映画になっているのだ。
しかし、やはりオカルトを信じないキューブリックが作っているだけあって、視聴者は父親に恐怖を感じるよう作られている。
父親に関しては一つを除いて、オカルトシーンが妄想としても捉えられるようになっている。
“幽霊が見えるより人間である事の方が恐ろしい”という現実を突き付けられ、人間である我々視聴者はぞわぞわする。
主人公は閉鎖的な環境下で自分の妄想の世界に入り込み、自分な世界を邪魔する家族さえ疎ましく思い“しつけ”という蛮行に走る。
香り付け程度のダニーの超能力や、終盤助けに来たコックのハロルドがすぐ死ぬことから、『オカルトはお呼びでないんだ!』というキューブリックの主張を感じる。
また死後の世界なぞ存在しないと主張するキューブリックだが、ラストシーンでジャックは今生より前、ホテルの支配人をしていたと暗示させる写真を写している。
これは『死後の世界はないけど輪廻天性なら信じる、悪い行いをすると来世で報いを受ける』というような輪廻転生説を提示してるように私は感じた。
この写真はストーリーに直接関わるものではないが、キューブリックからキングへの“歩み寄り”であり“妥協案”のような意思を感じられる。
感想
ちなみに、ペットセメタリー原作小説には同僚から遊びを断った主人公が「“勉強ばかりで遊ばなければ、ジャックはばかになる”っての、知ってるでしょう?」
と言われる。
本作でのキューブリックオリジナル演出である文言を、ペットセマタリーへ逆輸入しているのだろうか?
この後主人公は遊びに行くんだから、『俺の小説の主人公はもっと人間味があるんだ』というキューブリックへの嫌味みたいで、これもこれで可愛らしいですよね、
私の個人的な見解ですが。
次回『シャイニング』の続編映画、“ガソリンの入ってないキャデラック”と(私から)称される『ドクタースリープ』を紹介する。
まだ見てない方も、ネタバレ記事ですが是非どうぞ。
映画『ジョーカー』の心理描写から考察、ジョーカーが誕生しなかった理由。
社会的メッセージや演技の素晴らしさなんか語り尽くされているが、私としては演出の素晴らしさに着目し紹介したい。
(もちろんネタバレ)
そして、その後は“実は全部アーサーの妄想だった”という説を考察し事実と照らし合わせ検証していく。
信用できない語り手の手口にハマりすぎると映画が別物になってしまうということを、個人的な好みも踏まえて、説を否定する。
お品書きは
- あらすじ
- 演出のセンス
- 感想と考察
- 信用できない語り手、どこまでが妄想か
あらすじ
舞台は架空の都市ゴッサムシティ。大道芸人として糊口を凌ぐアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は、病弱な母親の面倒を見つつ、いつしかマレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)がホストを務める「マレー・フランクリン・ショー」に出演する日を夢見ている。
しかし彼には、笑いたい訳ではないのに突発的に笑ってしまうという、脳神経の病を患っていた。仲間からは阻害され、仕事もままならない。そんな最中、彼は居合わせた電車の中で、女性にちょっかいを出していた会社員を射殺するという凶行に及んでしまう……。
最狂のヴィランであるジョーカーはどのように誕生したのか? その真実が遂に明かされる。
フィルマガより引用
演出のセンス
個人的に秀逸だと思ったシーンの紹介。
画像が集めきれてない上、時系列でもないが、ご容赦頂きたい。
- アーサーにジョーカーが宿る
- 光に背を向ける、光に向かう
- ガラス越しにアーサーをみる
- 鑑に映る心境の変化
- ブルースとの比較
- 全体で統一されるジョーカーの色
- クライマックス、ジョーカーになることで確立するアーサーという人物
アーサーにジョーカーが宿るシーン
電車の中で例の証券マンを殺すシーン、誰もがハラハラし、アーサーの動向を注視するなか、照明がチカチカと何度も暗転を繰り返す。
前向きなアーサーの心の中に暗い変化が起きようとする様子が光に現れている、そして射殺。
しかし、殺人を犯してもアーサーの心はまだ前向きだ。
夢を諦めず、数日後にはコメディアンとして初めてショーの舞台に立つ。
しかしこのシーンで、アーサーの背後には濃い影が落ちていて、ジョーカーとして犯した罪が影として映像に表されている。
まばゆいスポットライトを浴びながらも不穏な雰囲気だ。
光に背を向けるシーン、光に向かうシーン
三人目の証券マンを殺すシーンの後、
「やっちまった」のシーンは逆光、光に背を向けている。
しかし殺人の後、自分自身の存在を噛み締めた時にアーサーは光に向かう演出がある。
それが翌日、クビになった職場を何の未練もないような装いで、「笑うな」の落書きを残し光の中に進んで行く時だ。
職場の階段を降り、扉の向こうの光の中に吸い込まれていく。
画像は母親を殺した後のもの、同じく光に向かっている。
階段のシーン
暗く長い階段を登るアーサー、
最後には光を背に悠々と階段を下りる。
確かな闇落ちが光の中で演出される。
アーサーにとっては真面目に生きて虐げられるより、落ちていく方がずっと光に満ちた道のりだった。
ガラス越しに見るアーサー
冒頭、子供を笑わせる時のバスの窓ガラスはきれい。
しかし、仕事をクビになり電車の中で証券マンに会うときは、同じ構図でも窓ガラスに落書きがされている。
(画像がなくて申し訳ないです…)
アーサーの心が踏みにじられて行く過程がガラス越しに描かれている。
また、クライマックスのシーンも同じ構図になっている。
誰にも見向きされない孤独な人生だったが、初めて社会に自分の存在を知らしめた。
鑑に映る心境の変化
最初は鑑の前でピエロメイクをしながら泣いていて、無理矢理笑顔を指で作り、その後指を下に落とし「への字」にする、そして、また指をあげ笑顔をつくり、うんざりだと言わんばかりに勢いよく指を引き抜く。
次の鑑の演出は、証券マンを殺し、身体から滲み出るようなダンスの後、鏡の前の自分を見て、堂々と大きく手を広げる。
その顔に作り笑いはない。
ブルースとの比較
同じ色合いの服を着ているのに、
ブルースの服は明らかに仕立てがいい。
貧困層と富裕層の差が残酷に映し出されている。
全体で統一されるジョーカーの色
赤青黄が全体を通して多めに配色されている。
これはジョーカーの色なのだが、クライマックスに近づくにつれ鮮やかになる。
(ステージの垂れ幕の色や各シーンのライティング等)
クライマックスでは夜の闇にこれらの色の光が眩しいほど光る。
しかし、その後ジョーカーとして血で笑顔を作った後、精神病院のシーンに移ると雰囲気が一変する。
クライマックス、ジョーカーになることで確立するアーサーという人物
真っ白な病院を真っ白な服で光へ向かい歩くシーンはアーサーがジョーカーとしてではなく、自分自身の道を歩きだしたように見える。
この直前に精神科医に見せた笑顔が唯一アーサーが見せた真の笑顔だと、製作陣が語っている。
思い返せば、ジョーカーの中にはアーサーがいて、作り笑顔をさせている事がわかる。
仕事場を去る時は「笑うな」と落書きしたのに、今度は「笑え」という意味の落書きをしている。
そして、観衆の前では冒頭と同じように指で笑顔をつくる。
クライマックスのシーンでさえ、ジョーカーはあの気の弱いアーサーのままなのだ。
感想と考察
兎に角私は、演技や社会的メッセージやヒーロー像の拒絶、実は妄想だった、などの考察もすごいけど、演出もなかなかグッと来るものがあったよね。という話しをしたかった。
この映画のストーリーについてはアーサーの心の変化が二時間かけて丁寧にあまりにリアルに描かれていて心を打たれた。
希望と絶望を何度もいったりきたり、
夢を追いかけ人を殺し、それでもまた夢を追いかけ、また人を殺す。
苦しかったり惨めだったり悲しかったり、そんな時に笑ってごまかすアーサーが、初めて自分の中の憎しみという負の感情を認めた時、身体が踊り出す。
自分で自分を肯定できた瞬間のように思える。
しかし、社会に自分の存在を認めさせるには、ジョーカーでなければできない。
ジョーカーとはアーサーにとって手段の一つだった。
だから、吹っ切れた!というには程遠い葛藤の中で終始ちぐはぐな行動をとる。(「笑うな」の後の「笑え」の落書きなど)
ジョークを思い付くシーンは、ブルースが両親を殺されたシーンが一瞬入ることから、バッドマンとジョーカーが、本作のストーリーのような出会い方をしていて、将来対決することになることで、ダークナイトシリーズに繋がることを表すシーンだったのでは?そして、思い付いたジョークは
『ノックノック、自分のせいで、とある裕福な子供の両親が死んだ』
そういうジョークの方が、本作のアーサーらしくて私としてはしっくりくる。
本作のジョーカーしか知らないのでダークナイトシリーズについては、よく分かんないですけど。
エンディングの演出に関しては、
社会で赤青黄色のシンボルとしてのジョーカー像が誕生する、
その後アーサーの中で白い光に向かうアーサーが誕生する、
そんな二つのエンディングがあるような気がした。
アーサーがジョーカーになるのではなく、
アーサーがジョーカーを介し、自らの人生の意義を感じ歩みだすような。
赤い足跡は新たな一歩を踏み出したことを表してる。
この作品は一貫してアーサーを描いた作品だである。
つまり、ジョーカーという名の映画で、ジョーカーを手段として、アーサーという人格が確立する、逆説的なラストだったのだと私は考える。
そして、このラストこそ、私にとって至上のラストなのである。
大どんでん返しなんてこの映画なくても十二分に名作なのだ。
信用できない語り手、どこまでが妄想か
最後のシーンが実は物語の最初のシーンでストーリーは全てアーサーのジョークだったという、“アーサー妄想説”をご存知だろうか?
「なぜ笑っているの?」
「面白いジョークを思い付いた」
「君には理解できない」のシーン。
私自身は“アーサー妄想説”に対し、
これを裏付ける根拠はなく、
これを否定する根拠もまた作中にはない。
と考える。
製作陣が信用できない語り手という手法を使い、視聴者が作品に想いを巡らし考察できるように、あえて謎を作り、あえて真実を隠しているのだろうと考える。
大前提としてラストシーンは視聴者に委ねられている。というのは確かだろう。
そして意図的に作られた謎もあれば、製作の都合により辻褄が合わなくなったシーンがあることも、映画では珍しくない。
だから、確かな真実はないのだ。
しかし、作品を観察すれば、より最もらしい考察が生まれることも確かだ。
この妄想説の根拠とされている物をいくつか検証する。
(明らかな論理の飛躍とされる部分は無視する。)
○なぜ笑ってるの?という台詞は、精神科医がまだアーサーの持病を知らなかったからストーリーの最初で妄想がここから始まることを意味している。
→アーサーの病気を知らなかった=最初のシーンというのはお粗末。
それに中盤のカウンセラーとは似てるけど別人のようにも見える。
そもそもカウンセリングなのだから、この時点でアーサーが犯罪者なら、何故犯罪を犯したかあらゆる角度からその心理を探ることがカウンセラーに求められていることなのでは?
→しかし、この時のカウンセラーが、中盤でのカウンセラーと別人であったとしても、同じような人物になっている理由はわからない。
○髪色が黒になってる=今までのアーサーではない
→ラストシーンでは暴動の中で逃げのびて家で染めなおした(アーサーはこれ以降ジョーカーに扮するつもりがなかった)、等色々考えられる。
個人的には自分で染めたのだと思ってる。
○時計が全部11時11分=妄想だから時間がすすんでない
→違う時間の時計も存在するし、これだけですべてが妄想だと言うには、根拠として乏しい。
→しかし、妄想じゃない根拠にもならない。
意味深すぎるので、何か妄想云々とは別の意味があるように思える。
○6発しか打てないリボルバーで8発打っている=妄想だから
→この時代に8発装填できるリボルバーは実在しているし、6発装填のものでも電車のなかで弾を込めていて我々が見えるシーンとして示されてないだけかもしれない。弾は複数貰っていたし。
→しかし、妄想だったから都合よく8発打てたという説を完璧に否定できない。
↓↓↓
これらのことから、妄想とは言い切れないし、妄想じゃないとも言い切れない。
先にも述べたが、映画に必ず真実が描かれているかどうかもわからない分、考察するのはあくまでオマケ的要素と捉えるのが妥当だと考える。
そもそも、信用できない語り手だったという事が明確に描かれるのは、女の部屋に行った時なのだが、そこからまた大きな“どんでん返し”的な演出をするのはやりすぎではないか?
そうだったら映画としてすごいとは思うけど、
そうするにはそれまで丁寧に描いてきた作品をもぶち壊してしまうと私は考える。
あのアーサーの苦悩と葛藤が妄想だったら?
製作陣が「実は全部妄想だったんです!」等と言ったら?逆に興ざめだろう。
個人的には感想にも述べたように、
ジョーカーは群衆が作り上げたシンボルであり、アーサーの本来の姿ではなかった。
(笑えと鑑に落書きしたり血で笑顔を作ったり、行動の核となる部分は作り笑顔で社会と繋がろうとする気弱なアーサーなのだ)
そして、最後の最後で、他人に受け入れられなくても良いと、やっと孤独に生きようと吹っ切れて、自らの道を歩むのだ。
と、私は考える。
ラストシーンでのみ見せた心からの笑いとは、そういうある種の自己肯定からくる喜びだったのでは?
「お前らなんて知らん、お前らが自分をどう思おうと知ったこっちゃない、自分は自分の好きなように生きる」というような。
おそらく壮大な妄想をして心から笑っているの訳ではないと思う。
とにかく、ストーリー上で描かれる繊細なアーサーの動向を無視して、これは全部妄想だと。
自分が見たいもの見て、それを確立するための理由を作品外から持ち込んで、作品から飛躍した考察を「これが真実だ!」という風に語るのは如何なものか、と思う。
しかし、色んな考察ができることや、その考察を信じることは個人の自由です。
それぞれの作品の受け取り方を否定はしません。
実際、私が今書いている文章だって、私が勝手に、私が見たいものを作品に見出だしてるので、やってることは一緒なのですが。
考察するならなるべく作品の中の情報で、そこから飛躍するような考えをせず組み立てた考察が一番筋が通ってると思うんです。
そして何より作られた映画そのものを大切にしたいんです。
まだまだ私自身未熟なので、偉そうなことは言えないのですが。
しかし、この映画に期待をして、いわゆる今までのジョーカーを求めて見た人には、アーサーが悪のカリスマに見えず、
壮大な妄想をする狂人であってほしいと思ったのかもしれない。
そうやって妄想説が生まれたように思えるし、そういう方向けに製作陣があえて考察する余地を“信用できない語り手”として残したのかも…
しかし、個人的には、もし妄想説を肯定するなら、
“全部アーサーの妄想だった”ではなく、
“ジョーカーの空想だった”の方がしっくりくる。
(妄想とは空想を事実だと思い込むこと、という考えのもと、空想とする。)
「幸せな人生の妄想を見る惨めなアーサーという人物が、ジョーカーだったら」という
本作のジョーカーではなくダークナイトの世界線のジョーカーがしている空想。
ダークナイト鑑賞者へのファンサービスでしょうか?
長くなりましたが以上で終わります。
画像が揃ってなかったり、相変わらず長文だったり、なんとも見辛い記事でしたがここまで読んでくださった方、ありがとうございます。
次回はまたホラージャンルに戻り、不屈の名作『シャイニング』を取り上げる。
スティーヴン・キング原作
スタンリー・キューブリック監督の本作を、
二人が持つ“恐怖の価値観の違い”から読み解く。
本作のテーマ、映画としてのメッセージはどこにあるのか、また長々とお話ししていきます。
映画『ペット・セメタリー』(2019) 原作小説や1989年版映画との違いを解説。
今回は2019年公開のリメイク版『ペット・セメタリー』を紹介する。
正直、設定やストーリーが浅く見えてしまう映画で、オリジナル版に比べて情緒的な演出の質は劣る。
しかし、“リメイク版として求められること”その課題全てをクリアしたように思える素晴らしい映画でもあるのだ。
是非みなさんにもご視聴していただきたい。
リメイク版の魅力(ネタバレなし)
恐怖を煽る演出が全体を通してかなり多め。
現代風で過激な、カルト、スプラッター、バイオレンス、幽霊、あらゆる恐怖を網羅していて、良くいえば観客を飽きさせない、悪くいえば欲張りすぎで底が浅い演出となっている。受け身で見る分にはとても良いエンターテイメント。
また、リメイク映画として見れば、オリジナルが既にあるからこそ出来ることを突き詰めた、すべてのリメイク版の鑑のような映画。
映画の中に誰もが知るホラー映画のオマージュ的なシーンがあったり、オリジナルや原作小説をを見た人だけが楽しめるシーンがあったり、ストーリーの改変があったり、良くここまで盛り込んだなと感嘆するほど。
引き込むオリジナル版に対して、打ち出すリメイク版といった感じ。全く別の趣向を凝らし、オリジナル版の雰囲気が苦手な人にも、広く受け入れられるような作品。
作品全体の印象は『フッテージ』に近い。
ストーリーのあらすじ
家族と田舎に引っ越した医師ルイス(ジェイソン・クラーク)。新居の裏には謎めいた動物の墓地“ペット・セメタリー”があった。
ある日、飼い猫が事故にあうと、墓地を越えた奥深くの森で猫を埋葬する。しかし次の日、凶暴に豹変した猫が姿を現わした。
その地は、先住民が語り継ぐ秘密の森だったのだ。そして迎えた娘エリー(ジェテ・ローレンス)の誕生日、彼女は交通事故で帰らぬ人に…。
果たしてルイスの取った行動とは――。
スティーブン・キングのインタビュー
こちらはリンクになるのですが、スティーヴン・キング氏がペットセメタリーに抱いている想いが綴られています。
この想いを知ると映画がさらにおもしろく見れますのでおすすめの記事。
https://news.yahoo.co.jp/articles/84236bc3a103744f32919fa7ac75c922c2a414cb
原作小説から、ストーリーの補足(ここからネタバレ)
(筆者はまだ上巻しか読めてないので、いずれ下巻を読んでから書き換えます…)
人の心の土壌は岩よりも硬いとは
パスコウの死に際の台詞
『人の心の土壌は、もっとかたいものだよ、ルイス、』
この意味深な言葉は、後にジャドからも語られる。
「今夜我々のしたことはなんだったんです?」
チャーチを埋めた後、
そう問いかけるルイスにジャドは、
『質問しすぎだ、人は正しいと思うことをしなくてはいけない。それは正しいことだったか?と疑問に持つより、なぜそんなことを疑念に思うかを疑うべきだ。そして人の奥底にあるそういうことをみだりに口にだすものではない。
それらは秘密の事柄なんだ。
女も秘密を持つ。しかし、人の心に関心のある女でも、その秘密は読み取れない。
人の心の土壌は、もっと硬いものだよ。
ちょうどさっきのミクマク族の埋葬地、あそこの土がそうだったように。
人はそこになんでも植えられるものを植える、そしてそれを大事に育てる。』
要約するとそのようなことを答える。
この作品の冒頭では、『死はひとつの神秘であり、埋葬は秘儀である。』とも語られていることから、
植えられているものは秘密であることがわかる。
“男は秘密を守る。
その決意は硬く、女には読み取れない。”
“男は誰にも悟らせず、秘密を育てていく。”
という解釈になるのではないか?
回りくどい話だが「女房には話すな」
ということだ。
男の秘密とは男の値打ちでもある
猫を埋めた翌日ジャドからの手紙
『さしあたり言っときたいのは、ゆうべしたことによって、あんたは自分の値打ちを証明したってことなんだ。』
自分の値打ちとは、家族の誰も知らない男の秘密を持ったこと。
それにより男の、父親としての値打ちが上がったというわけだ。
ミクマク族の埋葬地との関連性
ミクマク族の埋葬地はウェンディゴが土を腐らせた。
という言い伝えの真実は、北部一帯のインディアンの男達は食糧不足に陥ると、ウェンディゴが人を拐う等と言い、自分達が拐った人の肉を家族の生存のために食べさせていた。
その骨を例の埋葬地に埋め、土が腐ったと触れ回り埋葬地から家族を遠ざけた。
おそらくその真実が、家族に言えない男達の秘密であり、ルイスまで、長年受け継がれてきた秘密なのだ。
そして、あの埋葬地はルイスの物になった。
(なぜ埋めた者が蘇るのか、それは上巻には描かれてなかったので、後日書き出します…
致し方ない…)
原作小説より、主要キャラクターの補足
ジャドというキャラクター
『大抵のペットはばかで、のろまで死んだように見えるだけだった』
そして、牛を埋めたときは狂暴になった。
ジャドはチャーチが元通りにはならないにしろ、家族を傷つけはしないと思っていた。
そして、エリーが死から学べる教訓を母親が遠ざけてることも知った上で、エリーのためにチャーチを例の埋葬地へ埋めることを決意する。
死がいつか苦しみを終わらせ、すてきな思い出を始めさせること。
命の終わりではなく、苦しみの終わりであることをエリーに学ばされるためだ。
このように本来ジャドは、エリーを悲しませたくないから、等と言うような理由で禁忌を軽んじるような甘ったれ老人ではないのである。
しかし、ジャドは泣きながら次のようにも話す。
あの場所に取り憑かれたから、秘密を共有したくなった、と。
懺悔するのように語る。
このように、ミクマク族の埋葬地という秘密をルイスと共有したくなって教えてしまった、という点に関しては、思慮が浅いと感じざるを得ないが、
それと同時に埋葬地の呪いともとれる、あの秘密のパワーは凄まじいものだったと想像できる。
とはいえ、このジャドという老人はなかなか奥深い人物なのだが、それが映画版では割愛されているため、ジャドに対して苛立ちを感じた方も多いのではないか?
個人的見解、感想
リメイク版『ペットセメタリー』は正直恐怖演出に尽力を注ぎすぎて、キャラクターの奥深さや情緒に書けるが、リメイク版として、現代に打ち出すホラー映画としての完成度は高かった。
特に独自のストーリーがいい働きをしていて、姉ゼルダの死因である昇降口はオリジナリティがあり震える演出だった。
また、弟ではなく姉が死ぬ点はリメイク版ならではで、恐怖描写の嗜好によってリメイクかオリジナルかで好みが別れるように思う。
弟は不気味で可愛いチャッキー。
姉はバイオレンスな殺人気エスター。
ちなみにオリジナル版は89年公開なので、88年公開のチャッキーを見た人はきっと「リアルチャッキー」としてゲイジを捉えたことでしょう。
また、恐怖のエッセンスとして取り入れられた仮面の子供たちも目を惹く。
あれだけ印象的なのにただの香り付けで深い意味がなかったのは残念だが、アイキャッチなシンボルとしてキングのペットセメタリーが広く認知されるきっかけになってくれたなら私としては万々歳。
これを機にオリジナル版や原作小説に興味持ってくれる人が増えると嬉しい。
ちなみに、最初の画像は海外版のジャケット。
正直こっちの方がいい。
日本で映画が公開される際、ジャケットが改悪される問題は今に始まったことではないけど。
また、個人的にはオリジナル版の情緒溢れる演出が好みなのだが、リメイク版は“オリジナルに対してどこまで出来るか”、というすべてのリメイク映画共通の課題に対して、とんでもない成果を出したようも感じている。
リメイク版映画界でのクオリティとしては間違いなく上位だ。
また、この『ペットセメタリー』という映画はオリジナル版リメイク版どちらも、
“死をどのように受け入れるか”という大きなテーマの他に、“父親が抱える責任と人間的な弱さ”がテーマに描かれていると、私は考える。
スティーヴン・キング原作映画にその“父親が抱える責任と人間的な弱さ”というテーマは頻出していて、『シャイニング』や『ミスト』にも通ずるものがある。
女性が見ても十分面白い映画なのだが、男性が見るとより感じることが多い映画なのではないか?
そして、“インディアンの呪われた土地が、主人公達の人間的な脆さや弱さに付け入り破滅に導く”なんて構成はモロ『シャイニング』だ。
まったく違う趣の映画なのに構成やテーマが似通っていて、見比べると面白い。
オリジナル版に興味を持って下さった方はこちらも是非。
badendnihaimigaaru.hatenablog.com
というわけで、
今回も懲りずに、とんでもない記事の長さにしてしまった。
お付き合いくださった方ありがとうございました。
次回はたまには新作を、ということで『ジョーカー』のお話し。
色んな場所で評価や考察がされていて、今さら記事にすることでもないかなと思ったのですが、演技力に目が行きがちなのか、映像に関する考察がなされていないよう感じたので。
個人的な推測になるが、主人公アーサーがジョーカーになるまでの心境や人生が、目に見える映像と気持ちいいほど完璧にリンクしていたので、その辺りを解説していく。
映画『ペット・セメタリー』(1989) 考察。映像で予告される死と、父親に内在する歪な責任感。
スティーブン・キング原作映画89年版『ペットセメタリー』のお話し。
映像で予告される登場人物の死、ということだが死へ向かう者にはある色のアイテムがそれぞれに用意されている。
それらを読み解きながら、このストーリーが持つメインテーマを父親ルイスの人間性から考察する。
私自身、原作小説はまだ上巻までしか読めていないので、後日記事を書き換えるかもしれない。
ご容赦いただきたい。
胸糞映画と称されるがかなり自業自得感があり納得の終わり方。
ホラー映画としては派手に恐怖を煽る演出はないが、ごく普通の家族が破滅に向かう過程が丁寧かつ情緒的に描かれている。
「何か悪いことが起こる」そう予感させる恐怖で、作品へ引き込む凄まじい引力を持つ映画。
スティーブン・キング原作映画として有名な『シャイニング』とかなり近い作風ではあるが、こちらの方が素朴で情緒的なイメージ、後を引く魅力を持つ唯一無二の映画である。
ストーリーのあらすじ
田舎町に引っ越ししてきた医者のルイスは、妻のレーチェルと幼い娘のエリー、生後間もない息子のゲイジ、エリーの愛猫チャーチという家族を持つ、典型的な「幸せな一家」である。
庭には細道があり、その昔、町の子供たちが造ったペット霊園がある裏山に続いている。通りを挟んだ向かいの家には高齢の男性、ジャドが住んでいる。
レーチェルが子供たちを連れて実家に帰省していたある日、猫のチャーチルが車に轢かれて死んでしまう。まだ身近な「死」を受け入れたことのない幼い娘にどうやって説明するか悩むルイスは、詳しい事情を聞かないままジャドに連れられて、チャーチの死体を裏山からさらに奥に分け入った丘に埋める。すると次の日、死んだはずのチャーチが家に帰ってきた。だが、帰ってきたチャーチは全く別な“何か”のようだった。
そんなある日、今度は最愛の息子ゲイジがチャーチと同じように轢死してしまう。悲嘆にくれるルイスは決して超えてはいけない一線を超えてしまう。
(Wikipediaより引用、編集)
映像で予告される死
(ここからネタバレ&個人的な推測)
この映画では作中に度々現れる朱色のアイテムによって、この後死ぬ人が連想できるようになっている。
特に母親の場合は、あまりに朱色のロブスターの看板が作為的かつ不自然に映像に映るため、メアリー・ランバート監督があえて視聴者へ向け描いた演出なのだと推測している。
以下に記すアイテムがその死を予告するアイテムである。
・メイドの車
・パスコウのズボン
・ゲイジが冒頭で遊ぶ手押し車と凧
・ジャドのタバコ
・妻が家へ向かいヒッチハイクする時映る看板
・ルイスの帽子(出てきてからタイムラグ有)
(チャーチが初登場の際、ゲージの奥にあるペットフードが朱色なのだが、これはさすがにこじつけかもしれない)
さらに、ルイスとジャド以外、この朱色のアイテムが全て画面左から右に進むのである。
映画で良くあるルールで、ストーリーは右から左に進むので、左から右への進行は戻ることを意味する。
戻る、つまり先に進めないのだ。
ゲイジが落とした凧の持ち手も、序盤でゲイジが赤い手押し車をパパにぶつけるシーンも、ズボンに車にロブスターの看板、みんな左から右に。
また、車も重要なアイテムである。
ゲイジの死因はあの赤いオリンコ社のトラック。
そして、チャーチもパスコウも車に跳ねられている。
とりわけゲイジは玩具の手押し車を持ってて、ゲイジが死んだ後、写真の中に写るゲイジは赤い車輪つきのブリキの箱の様なものに乗っている。
車=死を運ぶもの、という意味に思えてならない。
全体的にゆったりと進むストーリーの中で、驚く程素早く画面を横切るオリンコ社のトラックは執拗な程登場する。
このスピード感のギャップに、我々はホラー映画としては現実的すぎる恐怖を煽られるのではないか。
また本作では、青色が表す視覚的効果も絶大だ。
その青色は死に対する恐怖が、色として表されているのかもしれない。
・メイドが車から降りて運び出す洗濯カゴの中のシーツと遺書のペン
・妻の姉ゼルダの服と部屋の壁紙
・絵に描かれたゼルダと思わしき少女の服
・ゲイジが死んだ後に着ている服
・ジャドの家の壁紙
・ペット霊園の奥の光(原作では青白い骨に見える時があるのでそれを加味した演出かもしれない)
などなど。
これらの演出が仮になかったとしても、この映画は名作であることに変わりはない。しかし、これらの演出が本作に深みを与えていることは明白である。
父親を反面教師に語られる映画のメッセージ
(あくまで映画を見て推測した個人的見解である)
まず、この映画の(原作小説を抜きに考えた)テーマは“死をどのように受け入れるか”という点である。
エリーに死の概念をどうやって話すか、悩む両親も未熟で、偏った思想を持っているのです。
序盤ではルイスはエリーに積極的に死の概念を教えようとし、言葉を選びながら、時には敢えて曖昧な言葉を使います。それはすごく慎重に扱うべき話題だとわきまえているからのように見える。
この時点では誰もが禁忌を犯す父親の様には見えない。
しかし、パスコウが死んだ後からルイスというキャラクターの歪さが露呈する。
パスコウに連れられ向かった墓地でのシーン、幽霊を前に怯えるのは当たり前なのなが、この時のルイスはパスコウの話を遮り、死を悼むわけでもなく
『僕の罪じゃない、来た時には瀕死も同然だったんだ…!』
と言いながら地面に横たわり胎児のように(夢から覚めるためでもあるだろうが)体を縮め泣きながら弁明する。映画オリジナルの映像表現力だ。
これはルイスが死の概念を受け入れながらも、その死に自分がどれだけ加担したか、という点に恐れを抱いているようにとれる。
なんとも自分勝手な行動だ。
そして、この後チャーチが死んだときは不思議と冷静なのだ、死体を見てチャーチに触れ、
『確かにチャーチで間違いない』
と淡々と言う。
立て続けに死を目の当たりにして辟易してたとしても、医者だったとしても、あまりに冷たい。
この時ルイスは、あれだけの墓が立つような土地で飼い猫がトラックに轢かれたということに、自分に責任はないと、どこかで思ったのではないか。
そしてこの数日後、危険だとわかっているはずの道路脇でルイスの不注意でゲイジが死ぬ。
葬式ではお義父さんがルイスの地雷を踏み抜いてお前のせいだ!とさんざんなじる。
その騒動で倒れた棺の中に、青白いゲイジの手が見えて、ここでギリギリの状態だったパパの精神が崩壊する。
この後は、もう誰も俺を止められない!といった具合に笑いながら墓を掘り返し、泣きながら我が子を抱きしめる。
愛する我が子を生き返らせたい、という気持ちがなかったわけではないだろう、しかし甦らせるという動機の発端は自らが招いた死の責任から逃れるためだったのではないか。ここに私はルイスの持つ歪みを感じた。
まだ生きてるエリーや妻に対して全く意識が向いてないことも頷ける。自分の事で精一杯なのだ。
そして、パパは何度も同じ過ちを繰り返す。
ゲイジも、妻も、苦労して大変な道のりを越えて自分の手で生きかえらすことで、責任をチャラにできると考えたのではないか。
この責任とは、“ルイス自身の責任“と、“父親としての責任”の二つを意味するが、後者については映画の中では十分に描かれていないため、次回原作小説を元に考察していく。
『男の心は岩より硬い』
あの意味深で説明不足な台詞の意味が、ジャドというキャラクターと共に丁寧に描写されているのである。
ともあれ、この映画では
“死をどのように受け入れるか”
が一貫したテーマとして描かれており、我々への問いかけでもあるのだ。
また、妻死ぬ理由について。
妻が墓地に対して悪趣味だと言わんばかりの態度に加え、去勢手術で死のリスクがあるにも関わらずそれをエリーに説明することを拒む。
エリーから死という存在全てを遠ざけようとし、教育に良くないというその建前の裏には、自身の壮絶なトラウマがある。
姉が死んでからずっと、死の概念を理解しようとも受け入れようともせず目をそらし続けたため、誰よりも死に恐怖し、幻覚を見るようになる。
このように2人はそれぞれ、“死を真っ向から受け入れようとしなかった”が故に、破滅の道を進む。
ある意味自業自得なのだ。
(幻覚に関しては、姉の姿が見えるだけでなく、クライマックスで訪れたジャドの家も禍々しく見えるのだが、これは実際のところゲイジのなかにいる超自然的なオカルトパワーが見せている。
これはルイスが家に入った時にも禍々しく見えていた家が、ゲイジの『ドキッとした?』という言葉の後、普通の家に戻ることから考えられる)
個人的見解
家族の多くが死に胸糞映画と一部視聴者から酷評されているが、そもそも映画の持つテーマやメッセージがあって、それによってラストも決まる。
だから、視聴者の思いどおりにならないこともあって然るべきなのだ。
そして思い通りにならないからこそ、何でもそうなったのか考える事が私にとっての映画の楽しみなのだ。
私は本作から、身近な人に死が訪れたとき、どんな状況であろうと目を背けず受け入れる努力をするべきだという教訓を受けた。
こんな深みのある映画で、テーマがキャラクターや映像で丁寧に説明されているのに、評価低めでちょっと悲しい。しかし、ミクマク族の土地や思わせ振りなジャドの態度など、映画で描き切れなかった設定が、視聴者に疑問を残してしまうことは事実なのである。
また、上記の考察ではルイスに対し“父としての歪な責任感”などと書いたが、家族に対して愛情があったことは無視できないのである。
ゲイジがクライマックスでルイスに襲いかかるシーン、そのおぼつかない足取りの中にルイスは、まだ生きていた頃のゲイジを見いだす。ルイスが求めていたものはこれだったのか、と思わせる感動的なシーンである。
情緒的な映画として私は本作を評価している。
しかしどうしてこれ程に、この映画は素晴らしいのか。
まだまだ語り尽くせないのだが、余りに長くなるので
これ以上は次回へ繰越す。
次回はリメイク版『ペットセメタリー』の記事ではあるが、オリジナル版の話もする。
どちらの映画にも描き切れてない部分の補足的な解説になるため、リメイク版未視聴の方も是非読んで欲しい。
尚、“オリジナル作品に対しリメイク版は何が出来るか”、という全リメイク映画が持つ課題に満点に近い答えを出した作品だと私は評価している。
badendnihaimigaaru.hatenablog.com
それでは、また。
長文のご視聴ありがとうございました。
映画『MAMA』考察。死の病に侵された妹。オープニングクレジットに隠されていた真実。
ダークファンタジーの帝王ギレルモ・デル・トロ総指揮の映画『MAMA』。
本作で姉妹が迎える最後には、とある“病気”が関わっています。この記事ではその“病気”について解説すると共に、映画に隠された謎を解説&考察します。
未視聴の方向けに映画の魅力とあらすじをご紹介しつつ、後半はガッツリネタバレしますのでご注意ください!
作品情報
MAMA(2013)
Mama
上映日:2014年05月17日/製作国:カナダスペイン/上映時間:100分
監督
アンディ・ムスキエティ
脚本
ニール・クロス
アンディ・ムスキエティ
バーバラ・マスキエッティ
出演者
ジェシカ・チャステイン
ニコライ・コスター=ワルドウ
ミーガン・シャルパンティエ
イザベル・ネリッセ
ダニエル・カッシュ
あらすじ
ゆがんだ母性愛を持つ霊の狂気を描いた新感覚ホラー。アルゼンチン出身の新鋭アンディ・ムスキエティ監督が手掛けた短編作品を、『パンズ・ラビリンス』などで知られるギレルモ・デル・トロ監督の製作総指揮により長編化。謎多き失踪(しっそう)事件から5年ぶりに保護された幼い姉妹を引き取った叔父とその恋人が、不可解な恐怖に襲われる。『ゼロ・ダーク・サーティ』などのジェシカ・チャステイン、『オブリビオン』などのニコライ・コスター=ワルドーらが出演。
投資仲介会社を営むジェフリー(ニコライ・コスター=ワルドー)は精神的な病が原因で、共同経営者と妻を殺してしまう。その後幼い娘たちを連れて逃走し、森をさまよう中見つけた小屋で娘たちを手に掛けようとするが、えたいの知れない何者かによって彼自身が殺されてしまう。それから5年後、奇跡的に生きながらえた姉妹はジェフリーの弟ルーカス(ニコライ・コスター=ワルドー)に発見され、彼と恋人アナベル(ジェシカ・チャステイン)のもとへ引き取られるが……。
シネマトゥデイより引用
本作の魅力
この映画の何よりの魅力は今までに見たことない斬新なホラー演出にある。
しかもそれが中盤まで豊富にある贅沢仕様。
しかし、スイッチをオンオフするようなビックリ系演出もあれば、中盤はモンスター系の恐ろしさに頼り切りになるため、視聴者に尻すぼみな印象を与えてしまい、いかに恐ろしいかという点での評価はあまり高くないのも事実である。
とはいえあらゆうホラー好きの方には是非見て頂きたい映画だ。
ここからネタバレ
オープニング考察 “病気”
多くの方がついファンタジーな雰囲気に流されてしまうこの映画は、現実的な目線で見ると、見えてくる世界が全く異なります。
ストーリー上では触れられてませんが、実は妹は狂犬病を発症しています。
作中で妹の様子がおかしいのは“野生化”ではなく狂犬病による“凶暴化”なのです。
そして妹が狂犬病になる過程を示したのが、オープニングクレジットのイラストです。
まずは狂犬病について解説します。
狂犬病は多くの場合、野生の小動物に噛まれることでそのウイルスに感染します。
1~3ヶ月の潜伏期間の後に発症します。
発症後は初期症状として、発熱、頭痛、倦怠感、食欲不振、嘔吐、咽頭痛などの症状を引き起こし、次第に知覚異常、筋の攣縮、興奮、運動過多、錯乱、幻覚などを引き起こし凶暴化します。そして最後には昏睡状態を経て呼吸が停止する、致死率100パーセントの病です。
日本では狂犬病の発症例はもうありませんが、アメリカでは未だ多くあります。
それではオープニングクレジットから妹が狂犬病を発症するまでを振り返ってみましょう。
ここのイラストで例の小屋に取り残された妹がアライグマに噛まれました。
アライグマが死んでます、恐らく父親同様ママに殺されたのでしょう。
その後姉妹二人が描かれたイラストが三枚あり、それらは数ヵ月間の潜伏期間を表してます。
そして姉だけのイラストが二枚あり、妹だけのイラストに続きます。
ここで発症しました。初期症状の風邪のような症状によって妹が家で寝込んでいるため、別行動だったのでしょう。
妹が吐血しているのか、凶暴化した妹がネズミを噛み殺したのか。
その後に泣いている姉の顔のアップのイラストが映る為、妹の凶暴化を悲しんでいると推察しました。
またもネズミが死んでいます。
そしてこの後のイラストから姉妹が四つん這いのイラストが続き、本編がスタートします。
イラストから判断するのは難しいですが、妹が狂犬病を発症してしまったという解釈はかなり現実的であると考えられます。
妹は、もうこの時点で死ぬ運命なんです。
エンディング考察 “MAMAの奇行”
お次は話題のダイナミック散骨について。
クライマックスで実子の遺骨を手にしたママが、その遺骨をぶん投げるのだ。
そしてママは怒り狂って妹を取り返しに来る。
多くの視聴者が「成仏せんのかい」と心に思ったことでしょう。
何故あのような事が起きるのか。
ママの“目的”が深く関わっている。
目的とは?
中盤で政府が保管する遺骨を医師が取りに行った際の職員言葉を振り返る。
『亡霊を信じる?遺体はそのままだと分解して朽ちてゆく、人として認識できない程に、そこから出た歪んだ感情が亡霊となって何度も現れる。目的を果たすまで。』
これは謎解き系映画を得意とする、ギレルモ氏によるミスリードなのだ。
幽霊のママを見てれば遺骨が目的で間違いないが、本来の、ママが死ぬ前の精神病患者としての目的は?
何のために我が子を取り返した?
自らの手で愛し育むことに他ならないだろう。
それは遺骨では叶わない。
そして、自分を呼ぶリリーの声を聞き、遺骨を投げ打って、妹を取り返した。
メインテーマ考察
オープニングとエンディングを考察したところで、この映画の大きなテーマに関して。
私が思うにこの映画のテーマは“親のエゴ”である。
実の父親は無理心中を計り、叔母は姉妹と対話することもせず親権ばかり求める。
エゴまみれの大人達ばかり出てくるのだ、この映画は。
そして、姉妹に執着しまくりで姉妹を束縛しようとしたママ。
適度な距離感で子供たちを支えるアナベル。
この相反する母性の対比なのである。
この映画は行き過ぎた我が子への執着に警鐘をならし、親子の関係のあり方を問いかける作品だったのでは、と私は捉えている。
本作はバッドエンドなのか
これを語るには、総指揮であるギレルモ・デル・トロについてお話しする必要がある。
かなりメタ的な解釈になるが、デルトロ氏のファンタジー映画はファンタジーでありながらファンタジーを否定して、とことん残酷な現実を視聴者に突きつけてくる映画なのだ。
一つの映画にハッピーエンドとバッドエンドの両方が確立する、それがデルトロ映画なのだ。
ラストシーンでは崖飛び降りた二人はたくさんの蛾に姿を変え、最後に蝶になった妹が姉の前に現れる。
蛾と蝶はそれぞれスピリチュアルな観点から見ると、蛾は蛍光灯に誘われ死んでしまう思慮の足りない虫だという点から、“嫉妬”や“好奇心”、“再生”を意味する。
そして蝶は“魂の象徴”を意味する。
こういった観点から解釈すると、妹の肉体は死滅したが、その“魂”はこれからも姉と共にあるなんてハッピーエンドな映画になる。
個人的には“狂犬病に侵された妹が、死の運命に逆らえず死ぬ”という圧倒的バッドエンドだと思ってますが…
しかし、どっちが正解とかはないと思うので、お好みの解釈で映画を楽しんでいただければと思います!以上!
デルトロ監督の他作品についてはこちら
badendnihaimigaaru.hatenablog.com
映画『セブン』制作者からのメッセージを具体的に考察してみる。
第二回、デヴィッド・フィンチャー監督映画セブンのお話し。
前回記事はいかがだったでしょうか。
あのシーンを解説してしまうことは少々無粋だったかもしれない。
しかし、あのシーンを語らずしてメインメッセージは語れないのである。
とはいえ、あれだけデヴィッド・フィンチャー監督に語られてしまっては。
もはや解説していく余地もないですよね。
そして、何度でも言うが、断定的な物言いをするが私の推測にすぎない。
まだ第一回の記事を読んでいらっしゃらない方は是非読んで下さい。
きっと後悔はさせません。
badendnihaimigaaru.hatenablog.com
それでは、あれだけでは解りづらいと言い方へ解説、
『人にものを聞かせるためには手で肩を叩いてもダメだ。ハンマーを使うのだ、そうすれば人は本気で聞く。』
『まだ全部終わってない。このすべてが終わればその結末は、人には理解しにくいが認めざるをえなくなる。』
『この腐った世の中で、誰が本気で奴らを罪のない人々だと?だが問題は、もっと普通にある人々の罪だ。我々はそれを許してる。それが日常で些細なことだから。朝から晩まで許してる。だがもう許されぬ、私が見せしめをした。私がしてきたことを人々は考え、それを学び、そして従う。永遠にな。』
この三つの台詞に絞り考えていこう。
ミルズの罪は何もジョン・ドゥを撃ち殺した“憤怒”だけではない。
ミルズはしばしばサマセットに仕事を任せっきりになる。
大食の現場にて
「中身は?」『きたねぇ!ゲロだ!』「血は?」『さあ?自分で見ろ』
等と宣うのだ、サマセットが自宅に訪れた際はサマセットが事件を読み解いていく場面で、ビールを取りに行き寝るから帰れといったようなことを言ったり、図書館で七つの大罪についてサマセットがコピーをとっている時は、離れた場所でのんきにお菓子を食べているのだ。
“怠惰”ではなかろうか?
出会ったばかりの頃は『俺の過去の経歴は?』「しらん。」『聞き込みとパトロールばかり。』「それで?」『今は刑事あんたと同じ身分だ。』
事件の担当に関して俺をのけ者にするなと、上司に駄々をこねる、挙げ句のはてに『俺が担当する。』等と、初めての町で、刑事となり初めての捜査で、これは“高慢”といえる。
サマセットに対し、もしこの時ミルズが、「
何で俺ではないこんなやつが仕事を任されるんだ!」
と、思っていたら“嫉妬”。
前の職場で喧嘩までして、妻を巻き込み、この町に転属を希望したという点からは、自分が犯罪者を捕まえたいという、“強欲“。
『俺は感情だけでいきてる!』と言い、その現場に来た記者に扮する犯人に『立ち入り禁止だ!出てけ!』と記者を強引に突き飛ばし追い払う。犯人に利用されたミルズの“憤怒”がこれですね。
こんな些細な罪を並び立てて、私はミルズを糾弾したい訳ではない。
しかし、これらの罪こそ、犯人(監督)の言う、普通にある人々の罪であり、許されて来た罪である。人々はその罪について考え直さなければならない。と言っているのだ。
つまり、ミルズのように、視聴者が日常で犯す些細な罪を、視聴者自身で振り返り、過ちを正せと。永遠に、死ぬまで自分を問いただし続けろ、と言っていると私は感じた。
そして、それを言い聞かすため、敢えて強烈なバッドエンドにした。
この映画自体が“ハンマー”なのだ。
サマセットが犯人の日記を読みながらこう言う、「説教師だ」と。
デヴィッド・フィンチャーは我々に説教してるのだ。
故に、この映画にハッピーエンドを求めるのはナンセンスなのである。
色欲の事件の後の酒場で、サマセットが言う「ハッピーエンドはない絶対に」
これも私には、監督のメタ発言のように思えてならない。
そのすぐ後の会話。
ミルズの台詞を『』で表す。
「無関心が美徳であるような、世の中はうんざりだ。」
『あんたもおんなじだろ。』
「違うとはいってない、無関心が一番の解決だ。」
『あんたは問題は人々の無関心だというが、俺は人など知ったことか自分にあればいい』
「関心が?」
『自分が世を変える。とにかくあなたは世の中をそう思うから辞める訳じゃない、辞めるからそう思いたいんだ。俺に同意を求めてる
、ああ世の中最悪だ。だが俺はそうは言わない、あんたに同意はしないできない。』
そしてミルズはこの思想を最後に体現する。
ここからはDVD特典の内容のご紹介と感想を垂れ流します。
まずは、特典について、すべては語りませんが個人的に気になる、監督が語るリーフレットのコラムを二つ抜粋します。
第一回、第二回は私の解釈をお話ししましたので、皆さんにもこのフィンチャーの言葉から、独自の解釈をしていただければと思います。
フィンチャー監督が考えるホラー映画とは
フィンチャー監督は、『セブン』のことを、刑事映画でもなく、サイコスリラーでもなくホラーであるとコメントしている。
人間が自制心を失っていくことの怖さを描いてるから、ホラー映画だと考える、と。
そして、ジョン・ドゥは都会の悪の象徴であり、ジョン・ドゥの悪の心は降りしきるよどんだ雨にイメージ化されていると語っている。冒頭から振り続いていた雨が、この映画の恐怖の象徴である犯人ジョン・ドゥの自首シーンからピタリと止んでしまい、その後不気味さを漂わせ晴天が続く。
監督は語る
こぺルソンから監督の依頼を受けたフィンチャーは、この物語を現実の社会の暗黒面を直視させるものとして捉えた。
“この作品は恐怖映画であると考えています。自制心の喪失の物語、つまり自分は絶対大丈夫であると思い込んでいる人々が、いかに歪んだ精神を心に宿してしまうのか、という話なのです。『セブン』は汚く、暴力的で、多くの場合憂鬱で気が滅入る大都会での、現実の生活についての映画です。私たちは、視覚的にも様式的にもそのようにこの世界を描きたいと思いました。すべてを生々しく現実的にね。”
また、多くの論争を生んでいる、七つの大罪の罪人と被害者についても、
七つの大罪は七人の死で完成する
という見出しのコラムの中に、
嫉妬(envy)胎児(embryo)発音が似ていて隠し味になってる。
というような事が書いてある。
別ページに嫉妬の被害者は妻で、死因は首を切断、と書かれており矛盾しているが、
制作サイドは細かい辻褄あわせはしていないのかもしれない。
独自の解釈を楽しむのがいいだろう。
ここからは感想を少し。
多くのレディが、『ブラピにアイラビューソーマッチと囁かれたい人生だった!!』と嘆くシーン、ここで個人的にグッと来たのは、妻が向いている方向なのだけど、恋しい夫を待っているなら先に寝るとき夫の方を向くはずなんですけど、この時妻は夫が寝るスペースに背を向け眠って、そこにミルズがベッドへ来て、後ろから妻を抱き締めるんです。
二人のすれ違いを描いていてグッと来ます。
あと、できることなら私もブラピにアイラビューと囁かれたいし、できることならその体を撫でまわしてみたいものです。
最後にこの映画の考察にはかの有名なハッピーエンド考察があります。
(気になる方はセブン、ハッピーエンドで検索を)
映画に何を見出すかは人それぞれで、
人は常に自分が見たいものを見るものに見出すと思っていて、私もその一人として記事を書いています。
ただ、私は私の記事に論理の飛躍や明らかな見逃しがあったら、指摘して欲しいと思います。
お互いの考察を認め合い、深め合う、それこそが喜びであると思っています。
そのために私は私の解釈に固執しない。
という訳で、個人的な解釈や、クライマックスの文字起こし、特典映像など、長々と語った『セブン』考察&感想シリーズも、これで終わりです。
名作ゆえどうしても語りたい事が多くなってしまいました。
お付き合いくださり、ありがとうございました。
前回までのリンクはこちら
badendnihaimigaaru.hatenablog.com
次回からは一つの映画に対し一つの記事で統一します。
ここまで長くはならないかと。
そして、いつも読んでくださる方、
スター、たいへん励みになっております。
読者になってくださった方も、
これからもご期待に添えるよう尽力いたしますね。
改めて、ご高覧ありがとうございました!
映画『セブン』きっと誰もが驚く、制作者からのメッセージを読み解いていく。
第一回、デヴィッド・フィンチャー監督映画、セブンについてお話ししていく。
今回は、この映画のメイン三人の関係性を整理し、クライマックスの見方を変えて、視聴者に投げられたメインメッセージを読み解いていく。
「私が今ここに書くのは、誰もがそれを望んだからだ。」
と意味深なことを書きつつ、おそらくまだ人目につくところには解説されてないことを書いていく。(断定的な言葉遣いをするが、あくまで私の推測に過ぎない)
視聴済みの方向けの記事なので、あらすじは省略する。
この映画に関して、寄せられる感想としては、最後のミルズの行動について、「悲しすぎる…」「胸糞」「救いがない」等が上げられるだろう。
確かに、物語の結末の衝撃の凄まじさたるや、絶望を感じざるを得ない。
なぜ、ミルズはジョンのを殺したのか、その行動になんの意味があったのか。
それでは本題、まずはミルズ、サマセット、ジョン・ドゥの三人の関係性について。
彼らは絶妙な、三角関係なのである。
サマセット 警察官(正義) 罪人に対して消極的に行動する
ミルズ 警察官(正義) 罪人に対して積極的に行動する
ジョン・ドゥ 犯罪者(悪) 罪人に対して積極的に行動する
サマセットとジョン・ドゥという完全に相容れない立場と行動原理を持つ二人の間で揺れ動くミルズという関係性なのである。
罪人に関しては云々については
サマセット→犯罪だらけの町で辟易していて、引退を待ち望んでる。妻同然の女性に恋人が出来た際に、警察官でありながら犯罪だらけのこの町で子供を育てることに恐怖し、生むべきではないと考えた。正義感が希薄。→罪人に対して消極的
ミルズ→犯罪者を捕まえ功績を上げたい。感情的。妻が殺された際に犯罪者であるジョン・ドゥに自らの手で裁きを与える。→罪人に対して積極的
ジョン・ドゥ→罪人に罪を償わせたい。歪んだ正義感を持つ。→罪人に対して積極的
という具合に推測したものである。
ミルズは、警察官として、その犯罪者を捕まえるという職務を越えて、正義感が強く、感情的で、犯罪者に対して無関心ではいられない節がある。
そしてこのミルズこそが、私たち視聴者なのである。
ミルズの罪は“憤怒”だけではない、詳しくは次回お話ししていく。これから私が考察する内容は、監督からのメッセージなくして語れないからだ。
なので先んだって、そのメッセージをご紹介する。
クライマックス、車中での会話を、詳しくみていこう。
これはミルズとサマセットがジョン・ドゥのしてきたことを問い詰めるシーン。
このシーンに関して、何だか会話の内容が分かりにくいと感じた方は多いのではないだろうか。
実はここでとんでもないことが起きている。
ジョン・ドゥはミルズを通して視聴者である私達と話しているのだ。
その時のジョン・ドゥはデヴィッド・フィンチャー自身であり、我々へのメッセージを語っている。
それを踏まえて、クライマックスのシーンをおさらいしよう。あまりに大胆な監督のメタ過ぎる発言に注目である。
(ブラピに対するメタ発言もあり、必見)
以下ジョン・ドゥの台詞を『』で示す。
『人にものを聞かせるためには手で肩を叩いてもダメだ。ハンマーを使うのだ、そうすれば人は本気で聞く。』
「お前は人にものを聞かすほど特別なのか?」
『特別じゃない、私は人と同じだ。だが私のしてることは特別だ。』
「してること?」
『ああ。』
「別に何も特別じゃない。」
『違う。』
「そうさ。不思議なことに2ヶ月も経つとみんなは興味を失い、すべて忘れちまう。」
『まだ全部終わってない。このすべてが終わればその結末は、人には理解しにくいが認めざるをえなくなる。』
「訳がわからんね、くだらん計画だ。」
『早く君に見せたいよ、すばらしい結末だ。』
「俺はお前の横についてる、ショーが始まったら教えろ、見逃したくない。」
『心配ない、見逃さんよ。絶対にな。』
「うれしそうだな。」
『もうすぐだ。』
中略(犯人が殺してきた人々の罪を捲し立てる)
『この腐った世の中で、誰が本気で奴らを罪のない人々だと?だが問題は、もっと普通にある人々の罪だ。我々はそれを許してる。それが日常で些細なことだから。朝から晩まで許してる。だがもう許されぬ、私が見せしめをした。私がしてきたことを人々は考え、それを学び、そして従う。永遠にな。』
「誇大妄想だ。」
『君は感謝しろ。』
「どうして?」
『この後人々の記憶に残る。……いいかね、私が今ここにいるのは、私が望んだからだ。』
次回、このクライマックスを少しだけ解説しつつ、映画全体を更に深読みしていく。
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