映画『ジョーカー』の心理描写から考察、ジョーカーが誕生しなかった理由。
社会的メッセージや演技の素晴らしさなんか語り尽くされているが、私としては演出の素晴らしさに着目し紹介したい。
(もちろんネタバレ)
そして、その後は“実は全部アーサーの妄想だった”という説を考察し事実と照らし合わせ検証していく。
信用できない語り手の手口にハマりすぎると映画が別物になってしまうということを、個人的な好みも踏まえて、説を否定する。
お品書きは
- あらすじ
- 演出のセンス
- 感想と考察
- 信用できない語り手、どこまでが妄想か
あらすじ
舞台は架空の都市ゴッサムシティ。大道芸人として糊口を凌ぐアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は、病弱な母親の面倒を見つつ、いつしかマレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)がホストを務める「マレー・フランクリン・ショー」に出演する日を夢見ている。
しかし彼には、笑いたい訳ではないのに突発的に笑ってしまうという、脳神経の病を患っていた。仲間からは阻害され、仕事もままならない。そんな最中、彼は居合わせた電車の中で、女性にちょっかいを出していた会社員を射殺するという凶行に及んでしまう……。
最狂のヴィランであるジョーカーはどのように誕生したのか? その真実が遂に明かされる。
フィルマガより引用
演出のセンス
個人的に秀逸だと思ったシーンの紹介。
画像が集めきれてない上、時系列でもないが、ご容赦頂きたい。
- アーサーにジョーカーが宿る
- 光に背を向ける、光に向かう
- ガラス越しにアーサーをみる
- 鑑に映る心境の変化
- ブルースとの比較
- 全体で統一されるジョーカーの色
- クライマックス、ジョーカーになることで確立するアーサーという人物
アーサーにジョーカーが宿るシーン
電車の中で例の証券マンを殺すシーン、誰もがハラハラし、アーサーの動向を注視するなか、照明がチカチカと何度も暗転を繰り返す。
前向きなアーサーの心の中に暗い変化が起きようとする様子が光に現れている、そして射殺。
しかし、殺人を犯してもアーサーの心はまだ前向きだ。
夢を諦めず、数日後にはコメディアンとして初めてショーの舞台に立つ。
しかしこのシーンで、アーサーの背後には濃い影が落ちていて、ジョーカーとして犯した罪が影として映像に表されている。
まばゆいスポットライトを浴びながらも不穏な雰囲気だ。
光に背を向けるシーン、光に向かうシーン
三人目の証券マンを殺すシーンの後、
「やっちまった」のシーンは逆光、光に背を向けている。
しかし殺人の後、自分自身の存在を噛み締めた時にアーサーは光に向かう演出がある。
それが翌日、クビになった職場を何の未練もないような装いで、「笑うな」の落書きを残し光の中に進んで行く時だ。
職場の階段を降り、扉の向こうの光の中に吸い込まれていく。
画像は母親を殺した後のもの、同じく光に向かっている。
階段のシーン
暗く長い階段を登るアーサー、
最後には光を背に悠々と階段を下りる。
確かな闇落ちが光の中で演出される。
アーサーにとっては真面目に生きて虐げられるより、落ちていく方がずっと光に満ちた道のりだった。
ガラス越しに見るアーサー
冒頭、子供を笑わせる時のバスの窓ガラスはきれい。
しかし、仕事をクビになり電車の中で証券マンに会うときは、同じ構図でも窓ガラスに落書きがされている。
(画像がなくて申し訳ないです…)
アーサーの心が踏みにじられて行く過程がガラス越しに描かれている。
また、クライマックスのシーンも同じ構図になっている。
誰にも見向きされない孤独な人生だったが、初めて社会に自分の存在を知らしめた。
鑑に映る心境の変化
最初は鑑の前でピエロメイクをしながら泣いていて、無理矢理笑顔を指で作り、その後指を下に落とし「への字」にする、そして、また指をあげ笑顔をつくり、うんざりだと言わんばかりに勢いよく指を引き抜く。
次の鑑の演出は、証券マンを殺し、身体から滲み出るようなダンスの後、鏡の前の自分を見て、堂々と大きく手を広げる。
その顔に作り笑いはない。
ブルースとの比較
同じ色合いの服を着ているのに、
ブルースの服は明らかに仕立てがいい。
貧困層と富裕層の差が残酷に映し出されている。
全体で統一されるジョーカーの色
赤青黄が全体を通して多めに配色されている。
これはジョーカーの色なのだが、クライマックスに近づくにつれ鮮やかになる。
(ステージの垂れ幕の色や各シーンのライティング等)
クライマックスでは夜の闇にこれらの色の光が眩しいほど光る。
しかし、その後ジョーカーとして血で笑顔を作った後、精神病院のシーンに移ると雰囲気が一変する。
クライマックス、ジョーカーになることで確立するアーサーという人物
真っ白な病院を真っ白な服で光へ向かい歩くシーンはアーサーがジョーカーとしてではなく、自分自身の道を歩きだしたように見える。
この直前に精神科医に見せた笑顔が唯一アーサーが見せた真の笑顔だと、製作陣が語っている。
思い返せば、ジョーカーの中にはアーサーがいて、作り笑顔をさせている事がわかる。
仕事場を去る時は「笑うな」と落書きしたのに、今度は「笑え」という意味の落書きをしている。
そして、観衆の前では冒頭と同じように指で笑顔をつくる。
クライマックスのシーンでさえ、ジョーカーはあの気の弱いアーサーのままなのだ。
感想と考察
兎に角私は、演技や社会的メッセージやヒーロー像の拒絶、実は妄想だった、などの考察もすごいけど、演出もなかなかグッと来るものがあったよね。という話しをしたかった。
この映画のストーリーについてはアーサーの心の変化が二時間かけて丁寧にあまりにリアルに描かれていて心を打たれた。
希望と絶望を何度もいったりきたり、
夢を追いかけ人を殺し、それでもまた夢を追いかけ、また人を殺す。
苦しかったり惨めだったり悲しかったり、そんな時に笑ってごまかすアーサーが、初めて自分の中の憎しみという負の感情を認めた時、身体が踊り出す。
自分で自分を肯定できた瞬間のように思える。
しかし、社会に自分の存在を認めさせるには、ジョーカーでなければできない。
ジョーカーとはアーサーにとって手段の一つだった。
だから、吹っ切れた!というには程遠い葛藤の中で終始ちぐはぐな行動をとる。(「笑うな」の後の「笑え」の落書きなど)
ジョークを思い付くシーンは、ブルースが両親を殺されたシーンが一瞬入ることから、バッドマンとジョーカーが、本作のストーリーのような出会い方をしていて、将来対決することになることで、ダークナイトシリーズに繋がることを表すシーンだったのでは?そして、思い付いたジョークは
『ノックノック、自分のせいで、とある裕福な子供の両親が死んだ』
そういうジョークの方が、本作のアーサーらしくて私としてはしっくりくる。
本作のジョーカーしか知らないのでダークナイトシリーズについては、よく分かんないですけど。
エンディングの演出に関しては、
社会で赤青黄色のシンボルとしてのジョーカー像が誕生する、
その後アーサーの中で白い光に向かうアーサーが誕生する、
そんな二つのエンディングがあるような気がした。
アーサーがジョーカーになるのではなく、
アーサーがジョーカーを介し、自らの人生の意義を感じ歩みだすような。
赤い足跡は新たな一歩を踏み出したことを表してる。
この作品は一貫してアーサーを描いた作品だである。
つまり、ジョーカーという名の映画で、ジョーカーを手段として、アーサーという人格が確立する、逆説的なラストだったのだと私は考える。
そして、このラストこそ、私にとって至上のラストなのである。
大どんでん返しなんてこの映画なくても十二分に名作なのだ。
信用できない語り手、どこまでが妄想か
最後のシーンが実は物語の最初のシーンでストーリーは全てアーサーのジョークだったという、“アーサー妄想説”をご存知だろうか?
「なぜ笑っているの?」
「面白いジョークを思い付いた」
「君には理解できない」のシーン。
私自身は“アーサー妄想説”に対し、
これを裏付ける根拠はなく、
これを否定する根拠もまた作中にはない。
と考える。
製作陣が信用できない語り手という手法を使い、視聴者が作品に想いを巡らし考察できるように、あえて謎を作り、あえて真実を隠しているのだろうと考える。
大前提としてラストシーンは視聴者に委ねられている。というのは確かだろう。
そして意図的に作られた謎もあれば、製作の都合により辻褄が合わなくなったシーンがあることも、映画では珍しくない。
だから、確かな真実はないのだ。
しかし、作品を観察すれば、より最もらしい考察が生まれることも確かだ。
この妄想説の根拠とされている物をいくつか検証する。
(明らかな論理の飛躍とされる部分は無視する。)
○なぜ笑ってるの?という台詞は、精神科医がまだアーサーの持病を知らなかったからストーリーの最初で妄想がここから始まることを意味している。
→アーサーの病気を知らなかった=最初のシーンというのはお粗末。
それに中盤のカウンセラーとは似てるけど別人のようにも見える。
そもそもカウンセリングなのだから、この時点でアーサーが犯罪者なら、何故犯罪を犯したかあらゆる角度からその心理を探ることがカウンセラーに求められていることなのでは?
→しかし、この時のカウンセラーが、中盤でのカウンセラーと別人であったとしても、同じような人物になっている理由はわからない。
○髪色が黒になってる=今までのアーサーではない
→ラストシーンでは暴動の中で逃げのびて家で染めなおした(アーサーはこれ以降ジョーカーに扮するつもりがなかった)、等色々考えられる。
個人的には自分で染めたのだと思ってる。
○時計が全部11時11分=妄想だから時間がすすんでない
→違う時間の時計も存在するし、これだけですべてが妄想だと言うには、根拠として乏しい。
→しかし、妄想じゃない根拠にもならない。
意味深すぎるので、何か妄想云々とは別の意味があるように思える。
○6発しか打てないリボルバーで8発打っている=妄想だから
→この時代に8発装填できるリボルバーは実在しているし、6発装填のものでも電車のなかで弾を込めていて我々が見えるシーンとして示されてないだけかもしれない。弾は複数貰っていたし。
→しかし、妄想だったから都合よく8発打てたという説を完璧に否定できない。
↓↓↓
これらのことから、妄想とは言い切れないし、妄想じゃないとも言い切れない。
先にも述べたが、映画に必ず真実が描かれているかどうかもわからない分、考察するのはあくまでオマケ的要素と捉えるのが妥当だと考える。
そもそも、信用できない語り手だったという事が明確に描かれるのは、女の部屋に行った時なのだが、そこからまた大きな“どんでん返し”的な演出をするのはやりすぎではないか?
そうだったら映画としてすごいとは思うけど、
そうするにはそれまで丁寧に描いてきた作品をもぶち壊してしまうと私は考える。
あのアーサーの苦悩と葛藤が妄想だったら?
製作陣が「実は全部妄想だったんです!」等と言ったら?逆に興ざめだろう。
個人的には感想にも述べたように、
ジョーカーは群衆が作り上げたシンボルであり、アーサーの本来の姿ではなかった。
(笑えと鑑に落書きしたり血で笑顔を作ったり、行動の核となる部分は作り笑顔で社会と繋がろうとする気弱なアーサーなのだ)
そして、最後の最後で、他人に受け入れられなくても良いと、やっと孤独に生きようと吹っ切れて、自らの道を歩むのだ。
と、私は考える。
ラストシーンでのみ見せた心からの笑いとは、そういうある種の自己肯定からくる喜びだったのでは?
「お前らなんて知らん、お前らが自分をどう思おうと知ったこっちゃない、自分は自分の好きなように生きる」というような。
おそらく壮大な妄想をして心から笑っているの訳ではないと思う。
とにかく、ストーリー上で描かれる繊細なアーサーの動向を無視して、これは全部妄想だと。
自分が見たいもの見て、それを確立するための理由を作品外から持ち込んで、作品から飛躍した考察を「これが真実だ!」という風に語るのは如何なものか、と思う。
しかし、色んな考察ができることや、その考察を信じることは個人の自由です。
それぞれの作品の受け取り方を否定はしません。
実際、私が今書いている文章だって、私が勝手に、私が見たいものを作品に見出だしてるので、やってることは一緒なのですが。
考察するならなるべく作品の中の情報で、そこから飛躍するような考えをせず組み立てた考察が一番筋が通ってると思うんです。
そして何より作られた映画そのものを大切にしたいんです。
まだまだ私自身未熟なので、偉そうなことは言えないのですが。
しかし、この映画に期待をして、いわゆる今までのジョーカーを求めて見た人には、アーサーが悪のカリスマに見えず、
壮大な妄想をする狂人であってほしいと思ったのかもしれない。
そうやって妄想説が生まれたように思えるし、そういう方向けに製作陣があえて考察する余地を“信用できない語り手”として残したのかも…
しかし、個人的には、もし妄想説を肯定するなら、
“全部アーサーの妄想だった”ではなく、
“ジョーカーの空想だった”の方がしっくりくる。
(妄想とは空想を事実だと思い込むこと、という考えのもと、空想とする。)
「幸せな人生の妄想を見る惨めなアーサーという人物が、ジョーカーだったら」という
本作のジョーカーではなくダークナイトの世界線のジョーカーがしている空想。
ダークナイト鑑賞者へのファンサービスでしょうか?
長くなりましたが以上で終わります。
画像が揃ってなかったり、相変わらず長文だったり、なんとも見辛い記事でしたがここまで読んでくださった方、ありがとうございます。
次回はまたホラージャンルに戻り、不屈の名作『シャイニング』を取り上げる。
スティーヴン・キング原作
スタンリー・キューブリック監督の本作を、
二人が持つ“恐怖の価値観の違い”から読み解く。
本作のテーマ、映画としてのメッセージはどこにあるのか、また長々とお話ししていきます。