映画『セブン』制作者からのメッセージを具体的に考察してみる。

第二回、デヴィッド・フィンチャー監督映画セブンのお話し。

前回記事はいかがだったでしょうか。
あのシーンを解説してしまうことは少々無粋だったかもしれない。
しかし、あのシーンを語らずしてメインメッセージは語れないのである。
とはいえ、あれだけデヴィッド・フィンチャー監督に語られてしまっては。
もはや解説していく余地もないですよね。
そして、何度でも言うが、断定的な物言いをするが私の推測にすぎない。

まだ第一回の記事を読んでいらっしゃらない方は是非読んで下さい。
きっと後悔はさせません。
badendnihaimigaaru.hatenablog.com



それでは、あれだけでは解りづらいと言い方へ解説、


『人にものを聞かせるためには手で肩を叩いてもダメだ。ハンマーを使うのだ、そうすれば人は本気で聞く。』

『まだ全部終わってない。このすべてが終わればその結末は、人には理解しにくいが認めざるをえなくなる。』

『この腐った世の中で、誰が本気で奴らを罪のない人々だと?だが問題は、もっと普通にある人々の罪だ。我々はそれを許してる。それが日常で些細なことだから。朝から晩まで許してる。だがもう許されぬ、私が見せしめをした。私がしてきたことを人々は考え、それを学び、そして従う。永遠にな。』




この三つの台詞に絞り考えていこう。

ミルズの罪は何もジョン・ドゥを撃ち殺した“憤怒”だけではない。

ミルズはしばしばサマセットに仕事を任せっきりになる。
大食の現場にて
「中身は?」『きたねぇ!ゲロだ!』「血は?」『さあ?自分で見ろ』
等と宣うのだ、サマセットが自宅に訪れた際はサマセットが事件を読み解いていく場面で、ビールを取りに行き寝るから帰れといったようなことを言ったり、図書館で七つの大罪についてサマセットがコピーをとっている時は、離れた場所でのんきにお菓子を食べているのだ。
“怠惰”ではなかろうか?


出会ったばかりの頃は『俺の過去の経歴は?』「しらん。」『聞き込みとパトロールばかり。』「それで?」『今は刑事あんたと同じ身分だ。』
事件の担当に関して俺をのけ者にするなと、上司に駄々をこねる、挙げ句のはてに『俺が担当する。』等と、初めての町で、刑事となり初めての捜査で、これは“高慢”といえる。

サマセットに対し、もしこの時ミルズが、「
何で俺ではないこんなやつが仕事を任されるんだ!」
と、思っていたら“嫉妬”。

前の職場で喧嘩までして、妻を巻き込み、この町に転属を希望したという点からは、自分が犯罪者を捕まえたいという、“強欲“。


『俺は感情だけでいきてる!』と言い、その現場に来た記者に扮する犯人に『立ち入り禁止だ!出てけ!』と記者を強引に突き飛ばし追い払う。犯人に利用されたミルズの“憤怒”がこれですね。


こんな些細な罪を並び立てて、私はミルズを糾弾したい訳ではない。
しかし、これらの罪こそ、犯人(監督)の言う、普通にある人々の罪であり、許されて来た罪である。人々はその罪について考え直さなければならない。と言っているのだ。

つまり、ミルズのように、視聴者が日常で犯す些細な罪を、視聴者自身で振り返り、過ちを正せと。永遠に、死ぬまで自分を問いただし続けろ、と言っていると私は感じた。

そして、それを言い聞かすため、敢えて強烈なバッドエンドにした。
この映画自体が“ハンマー”なのだ。


サマセットが犯人の日記を読みながらこう言う、「説教師だ」と。
デヴィッド・フィンチャーは我々に説教してるのだ。
故に、この映画にハッピーエンドを求めるのはナンセンスなのである。


色欲の事件の後の酒場で、サマセットが言う「ハッピーエンドはない絶対に」
これも私には、監督のメタ発言のように思えてならない。

そのすぐ後の会話。
ミルズの台詞を『』で表す。

「無関心が美徳であるような、世の中はうんざりだ。」
『あんたもおんなじだろ。』
「違うとはいってない、無関心が一番の解決だ。」
『あんたは問題は人々の無関心だというが、俺は人など知ったことか自分にあればいい』
「関心が?」
『自分が世を変える。とにかくあなたは世の中をそう思うから辞める訳じゃない、辞めるからそう思いたいんだ。俺に同意を求めてる
、ああ世の中最悪だ。だが俺はそうは言わない、あんたに同意はしないできない。』

そしてミルズはこの思想を最後に体現する。




ここからはDVD特典の内容のご紹介と感想を垂れ流します。

セブン [WB COLLECTION][AmazonDVDコレクション] [DVD]
まずは、特典について、すべては語りませんが個人的に気になる、監督が語るリーフレットのコラムを二つ抜粋します。

第一回、第二回は私の解釈をお話ししましたので、皆さんにもこのフィンチャーの言葉から、独自の解釈をしていただければと思います。




フィンチャー監督が考えるホラー映画とは

フィンチャー監督は、『セブン』のことを、刑事映画でもなく、サイコスリラーでもなくホラーであるとコメントしている。
人間が自制心を失っていくことの怖さを描いてるから、ホラー映画だと考える、と。

そして、ジョン・ドゥは都会の悪の象徴であり、ジョン・ドゥの悪の心は降りしきるよどんだ雨にイメージ化されていると語っている。冒頭から振り続いていた雨が、この映画の恐怖の象徴である犯人ジョン・ドゥの自首シーンからピタリと止んでしまい、その後不気味さを漂わせ晴天が続く。



監督は語る

こぺルソンから監督の依頼を受けたフィンチャーは、この物語を現実の社会の暗黒面を直視させるものとして捉えた。
“この作品は恐怖映画であると考えています。自制心の喪失の物語、つまり自分は絶対大丈夫であると思い込んでいる人々が、いかに歪んだ精神を心に宿してしまうのか、という話なのです。『セブン』は汚く、暴力的で、多くの場合憂鬱で気が滅入る大都会での、現実の生活についての映画です。私たちは、視覚的にも様式的にもそのようにこの世界を描きたいと思いました。すべてを生々しく現実的にね。”



また、多くの論争を生んでいる、七つの大罪の罪人と被害者についても、

七つの大罪は七人の死で完成する
という見出しのコラムの中に、
嫉妬(envy)胎児(embryo)発音が似ていて隠し味になってる。
というような事が書いてある。
別ページに嫉妬の被害者は妻で、死因は首を切断、と書かれており矛盾しているが、
制作サイドは細かい辻褄あわせはしていないのかもしれない。
独自の解釈を楽しむのがいいだろう。



ここからは感想を少し。

多くのレディが、『ブラピにアイラビューソーマッチと囁かれたい人生だった!!』と嘆くシーン、ここで個人的にグッと来たのは、妻が向いている方向なのだけど、恋しい夫を待っているなら先に寝るとき夫の方を向くはずなんですけど、この時妻は夫が寝るスペースに背を向け眠って、そこにミルズがベッドへ来て、後ろから妻を抱き締めるんです。
二人のすれ違いを描いていてグッと来ます。
あと、できることなら私もブラピにアイラビューと囁かれたいし、できることならその体を撫でまわしてみたいものです。



最後にこの映画の考察にはかの有名なハッピーエンド考察があります。
(気になる方はセブン、ハッピーエンドで検索を)

映画に何を見出すかは人それぞれで、
人は常に自分が見たいものを見るものに見出すと思っていて、私もその一人として記事を書いています。

ただ、私は私の記事に論理の飛躍や明らかな見逃しがあったら、指摘して欲しいと思います。
お互いの考察を認め合い、深め合う、それこそが喜びであると思っています。
そのために私は私の解釈に固執しない。

という訳で、個人的な解釈や、クライマックスの文字起こし、特典映像など、長々と語った『セブン』考察&感想シリーズも、これで終わりです。
名作ゆえどうしても語りたい事が多くなってしまいました。
お付き合いくださり、ありがとうございました。

前回までのリンクはこちら
badendnihaimigaaru.hatenablog.com


次回からは一つの映画に対し一つの記事で統一します。
ここまで長くはならないかと。


そして、いつも読んでくださる方、
スター、たいへん励みになっております。
読者になってくださった方も、
これからもご期待に添えるよう尽力いたしますね。
改めて、ご高覧ありがとうございました!